2014年12月2日火曜日

渇望感のあることば、けいじの心がさわぐのはなぜ?

本を読んでいると心に引っ掛かる言葉というものがあります。
先日読み終えた川村元気さんの本『世界から猫が消えたなら』(マガジンハウス)に繰り返して出てくる次の言葉に心が引っ掛かりました。
★「何かを得るためには、何かを失わなくてはね」あたりまえのことだと、母さんは言った。人間は何も失わずに、何かを得ようとする。それならまだいい。いまは、何も失わずに、何もかも手に入れたい人ばかりだという。でもそれは奪う行為に他ならない。だれかが得ているそのときに、だれかが失っている。だれかの幸せは、だれかの不幸の上に成り立っているのだ。(p45)
★正解を思い出した。すぐに彼女に伝えなくては。携帯電話、と僕はポケットを探る。ない。そう、ないのだ。もどかしかった。すぐに、彼女に正解を伝えたかった。僕はゆっくりと足踏みしながら、映画館を見上げた。そのとき僕は気付いた。この気持ちが、学生時代に彼女からの電話を待っていたときの、あの気持ちと同じであることに。このすぐに伝えられないもどかしい時間こそが、相手のことを想っている時間そのものなのだ。かつて人間にとって、手紙が相手に届き、相手から手紙が届く時間が待ち遠しかったように。プレゼントは、物そのものに意味があるのではなく、そのプレゼントを選んでいるときに、相手が喜ぶ顔を想像している、その時間自体に意味があるのと同じように。「何かを得るためには、何かを失わなくてはね」母さんの言葉をふと思い出す。(p82-83)
また、小林正観さんの本『淡々と生きる』においても似たような次の言葉に心がとらえられました。
●幼稚園、小学校、中学校、高校、大学へ行っても、会社でも、家庭生活でも、社会全体でも、「自分の思うようにならないのは、努力が足りないからだ。がんばりが足りないからだ」というふうに、世の中全部が洗脳されているからです。
●夢や希望を持って、それを語りなさい、それに向かって行きなさい、という表現もあふれています。夢や希望というのは耳にはいい響きですが、よく考えてみると、結局は「足りないこと」を言っているにすぎないのです。「あれが足りない。これが足りない。あれを寄こせ。これを寄こせ」と言うことを夢や希望であると吹聴しています。これは突きつめていくと、エゴなのです。
●私たちは九千九百九十の喜びを宇宙からいただいているのに、足りない十個を挙げて、それを「寄こせ、寄こせ」と言っているのです。「その十個を手に入れたら幸せだ。手に入らなかったら、不幸だ」と。
●すでにいただいている九千九百九十のこと、目が見えること、耳が聞こえること、食べられること、歩けること、文字が書けること、言葉を口にできること、友人がいること---ありとあらゆることが、喜びと感謝になっているはずなのに、「あれが足りない。これが足りない」と並べあげ、それを手に入れることが努力であり、がんばりであり、成功することだと、洗脳されてしまったのです。
●そこにあるのは、渇望感です。「足りない。足りない。足りない」。だから「やらなくちゃいけない、がんばらなくちゃいけない。向上しなくちゃいけない」と自分で自分をかき立てながら生きている。これは疲れます。(p138-140)
なぜ、このような渇望感のあることば、表現にけいじの心がさわいだり、とらえられたりするのでしょうか?
仏壇に向かってお唱えている般若心経の五蘊(色・受・想・行・識)皆空に当たるからでしょうかね!?

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