2015年6月25日木曜日

『<わたし> ―真実と主観性』、『おもてなしの「あん」』と同じく感動的な言葉に出会う

先に『おもてなしの「あん」』という新聞記事を紹介していました。
次のような感動的な本当にいい言葉に出会ったと。
★この世に生まれたものを大切にする。生まれたものの姿をよく見、その内なる声に耳を傾ける。それが小豆の命を生かしたあんにつながる。
★徳江は、一個一個の小豆を見て、色や形を見分ける目があるが、ふつうの人は、小豆は小豆、みな同じである。花が咲いている。ああ桜か、と思うと、花見でも一つ一つの花の色や形を愛でることをやめてしまう。なぜか。
★生きとし生けるもの、「私たちはこの世を観みるために、聞くために生まれてきた」
それと同じだなと思える言葉がデヴィッド・R. ホーキンズ博士の本『<わたし> ―真実と主観性』(ナチュラルスピリット)にも出てきました。
奥深い言葉なのでそっくり抜粋させていただきます。
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正しく見ることができれば、ゴミ箱は愛すべきものであるだけでなく、美しく、完壁であることがわかります。外見を愛することを妨げるあらゆる障壁を取り除かなければなりません。古いゴミ箱を不快に思うのは、固有のプログラミングのせいだということがわかるまで、心を訓練する必要があります。
ゴミ箱について瞑想してみると、「真実」の中では、"ゴミ"などそもそも存在しないことに気がつくでしょう。そこにあるのは、スイカの皮であり、それは食卓にあったときは食べ物と呼ばれていました。しかし、ゴミ箱の中で姿を見せた途端に、不思議なことに「ゴミ」に名前が変わってしまうのです。でも本当のとこ
ろ、スイカの皮であることに変わりはありません。この何の罪もないスイカの皮の隣には、壊れた卵の殻があります。あなたがそれを何と呼ぼうと、それは単に、何の罪もない壊れた卵の殻に違いありません。その隣には、素敵なラップがあります。引き裂かれ、くちゃくちゃに丸められていますが、本質的に、便利な一片のプラスチックであることに変わりありません。けれども、すべてまとめてゴミ箱に入れられると、たちまち"ただのゴミ"という呼び名とともに拒否されてしまうのです。
万物の中に愛を見るという内なる意図があれば、存在するものすべてには、独白の統合性とアイデンティティがあり、どのように人間に貢献しているかを見れば、それらが等しく称えられるべき存在だということに気がつくはずです。スイカは園芸の賜物です。スイカが育ち、出荷することで収入が生まれます。卵の需要があるために、鶏は生かされ、ひとつの産業が創出されることになります。わたしたちは固定概念を捨てることで、存在するものすべての価値を発見し、それがどんな形をしていても、愛すべきものであることに気がつきます。ゴミ箱の横をチョロチョロと走り回るネズミは、可愛くも汚くも見えますが、それも観察者次第です。
"ゴミ箱の禅"より簡単で手っ取り早いエクササイズは、"クリネックス(ティシュ)の禅"です。"クリネックス"を超えたところに焦点を当てると、箱から顔を出したティシュの形のえも言われぬ美しさと優雅さに目がいくでしょう。それはまるで上品な彫刻を鑑賞しているかのように、精妙な羽根、あるいは海面に広がる波紋に見えてきます。
使い古されたゴミ箱の美や愛らしさが姿を現したら、霊的な探究者はプロセスがうまくいっていることを確信できます。ティシュの美のダンスは、さらに前進するための神の真理の手招きであり、探究者が目的地に近づいていることを示しています。(p74-75)
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この本は内容が深遠であるうえに分厚いので、かなり読み応えがありますね。
興味のある分野なのでじっくりと味わいながら読んでいますわ。
有り難いことです。
ありがとうございます。

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