2015年7月14日火曜日

デヴィッド・R・ホーキンズ博士の『<わたし> ―真実と主観性』、"今の瞬間という頂点に生きる"から昔読んだ本を思い出す

デヴィッド・R・ホーキンズ博士の本、『<わたし> ―真実と主観性』と『パワーか、フォースか』を並行して読み進めています。
先に読んでいたときに心に響いていた言葉を『<わたし> ―真実と主観性』から先ずは紹介してみたいと思います。
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霊的であることには、現世的な、実質的な報酬は何もありません。その代わりに喜びや充実感、楽しさ、嬉しさなどの内なる報酬があります。獲得ではなく、目標そのものが動機になります。
霊的な真実は、世界が供給できるいかなるものよりも、喜びと充実感をもたらしてくれます。そしてそれは無限であり、未来ではなく常に今という瞬間において永続的です。霊的な人生はとてもエキサイティングです。というのも、そこでは今の瞬間という頂点に生きるようになり、それは波の背後にある過去でも、前方の未来でもないからです。あたかもナイフの刃のように鋭い瞬間に生きるというエキサイティングな生き方は、過去にとらわれている人や未来に生きる夢追い人よりも、ずっと自由があります。
もし、人生の目標が、生きるうえで次々にやってくる瞬間にベストを尽くすということならば、あなたはもうすでに苦しみの主要な原因を回避しています。このダイナミックな今という瞬間に静止していることができれば、反応したり編集したりしなければならない人生の物語は存在しません。この一点に集中する心(マインド)を持つことができれば、すべてはただ"あるがままにある"、それだけだということが明確になります。そこには、コメントや修飾すべきことは何もありません。(p140-141)
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これを読んでいて、2012年に読んだ森本哲郎さんの本『老いを生きる』にあった言葉を思いだしました。
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道元禅師は、それをこうも記している。
山を越え、河を渡って、自分はいまここにいる。とすれば、山を越え、河を渡った時は、すでに過ぎ去ったと思うだろう。しかし、それはちがう。山を越えた時にも、河を渡った時にも、自分は存在した。その私の中には時があり、その時は、自分がここにいるかぎり、いまもある。とすれば、山を越えた「時」は、依然として私とともにあると考えねばならない。すなわち、過去の「時」は、みな現在の私のうちに存在するのだ、と。
道元禅師は、そうした時間の相を「而今(しきん)」という語で表現している。「而今」とは、「まさにこの時」「今の今」「永遠の現在」という意をこめた言葉と見てよい。言い換えれば、歴史は現在に凝縮される。いや、過去だけではない。未来も「而今」にこめられているのだ。だから、時は飛び去る、とだけ考えてはならぬ。過ぎゆくだけが時の働きだ、と心得てはいけない。もし、時が飛び去るだけのものであるなら、時と我との間に隙間ができてしまうではないか。時は我のなかに。つねに「而今」としてあるのだ、と禅師はいう。(p170-171)
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なかなか奥が深くてまだ体感できていませんので、いま一つよく分かりませんですわ。
それでも、なにかこれがけいじの求めているものだということは分かります。
これを探求していくのが、けいじの人生のようにも思います。
有り難いことですわ。
ありがとうございます。

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