2016年5月9日月曜日

パワーとフォースの違い、わかりやすい説明を求めて、読書がシンクロを起こす

昨日、デヴィッド・R・ホーキンズ博士の本『パワーか、フォースか』を採りあげましたが、いまひとつパワーとフォースの違いがよくわかりません。
確か、その違いについてもっとわかりやすく書いたところがあったなと思い出しました。
そこで佐藤優さんの本『読書の技法』(東洋経済新報社)の影響で書き始めたノートを調べてみました。
すると『パワーか、フォースか』について付箋の付いたページを書き写してあるところがありましたわ。
スキャナーでPDF化した「けいじのライブラリー」でその本の付箋のページを当たっていくと見つかりました。
内容が複雑で深淵なうえに非常に大切な部分でもありますので、そっくり引用させていただきたいと思います。
【パワーとフォースの違い】
私たちが研究していくにつれて、パワーが「意味」から生じているということがわかってきました。また、パワーは「動機」や「原理」とも関係しています。
パワーは生命そのものを常に支えてくれます。そのパワーを、人間の気高さという性質として見ることができます。「気高さ」とは、フォースにおいて私たちが「俗っぽい」と呼ぶものと相対するものです。
パワーは私たちを高揚させ、立派にも気高くもしてくれるものです。フォースは、常に正当化されなければなりませんが、パワーは正当化される必要はまったくありません。フォースは、部分的なものに関係していますが、パワーは全体に関係しています。
フォースの本質を分析すれば、それがなぜいつもパワーに負けるのかという理由は明確です。
それは「反発力」という物理学の基本法則にしたがっているからです。つまりフォースは、対立するフォースを自動的に創ってしまうのです。したがって、自ら制限をつくってしまうのです。
フォースとはひとつの動きであり、対立する中で「ここ」から『あちら」へと移動します。
少なくともそう試みるのです。それとは異なり、パワーはじっとしています。動かないフィールドのようなものです。例えば、重力そのものは何に対しても動きませんが、それが持つパワーは物質すべてをそのフィールド内で動かすことができます。しかし、重力のフィールドそのものは動きません。
フォースは、常に何かに対立する行動をとりますが、パワーは何に対してもまったく敵対的な行動はとりません。
フォースは不完全なものであり、絶えずエネルギーが与えられなければなりません。パワーは全体であり、また完壁なものです。外部から何も必要としないし、まったく要求もしません。ニーズがまったくないということです。
フォースには、ものすごい食欲があるので、絶えず消費してしまいます。パワーはそれとは対照的で、エネルギーを与えながら前進させ、供給し、動かし、サポートします。
パワーは、命とエネルギーを与えてくれます。そして、フォースはこれらを奪い去るのです。
パワーは「慈愛」とつながっていて、自分自身がポジティブな意識になっていることに気づかせてくれます。フォースは判断や批判とつながっていて、自分自身がみじめに感じられるだけです。
フォースは、常に対立するフォースを必要とするので、融合どころか勝ち組と負け組の二つに分極することは避けられません。絶えず敵と顔を合わぜていなければならないので、常に守勢にまわることになります。しかし防御的な姿勢は、経済活動においても、政治活動においても、あるいは国際情勢であっても、コストがかかることは避けられないのです。
パワーの源を探っていくと、それは「意味」とつながることがわかります。また「意味」は、生命の大切さとつながっていることもわかります。
フォースは具体的かつ論理的なので、議論好きでもあります。フォースは「実証」することと、他からのサポートを必要とします。
しかしパワーの源は、議論する必要はなく、証明する対象にはなりません。自明なので論争する必要はないのです。健康が病気より大切で、命が死より大事であり、名誉は不名誉より望ましく、信頼と信用は、疑いや皮肉より望ましく、破壊より創造が望ましいでしょう。これら
はすべていわずと知れたことで、証明する対象とはなりません。結局、パワーの根源について言えることは、唯一、「あるがまま」存在することといえるでしょう。
あらゆる文明が固有の「原理」によって特徴づけられています。文明の原理が気高いものであるならば、その文明は栄えます。逆に利己的であるなら、滅びます。
「原理」という用語は抽象的に聞こえるかもしれませんが、原理の結果は、非常に具体的なものです。原理について調べると、目に見えない「意識の中の領域」に属していることがわかります。正直さを指摘する例はいくらでもありますが、文明の中心的な原理の背後にある正直さは、現実世界のどこを探しても、ひとつの形としては見つかりません。というのは、本当の「パワー」は意識そのものから生じているからです。私たちが見ているものは、目に見えないものの目に見える現象です。
生活向上への努力や、目的に対する気高さ、あるいはプライドといったものは、インスピレーションとなり、生活に意味を与えるものだと考えられます。しかし、この現実世界において実際に私たちの励みとなるものは、私たちにとってパワフルな意味をもつ概念を象徴するものです。
例えば、国旗などです。そのようなシンボルは、抽象的ではありますが、私たちの目標を「原理」に再び沿わせてくれます。シンボルは、私たちの意識の中にすでに存在している「原理」から莫大なパワーを集めることができます。
「意味」は非常に重要であり、人生の意味を失うと、結果として自殺につながることもよくあります。生きる意味を失うと、まず、最初にうつ病になります。人生が十分に無意味なものとなってしまうと、生きるすべてを捨ててしまいます。
フォースには、一時的な目標が付き添います。それらの目標が達成されると、無意味な空虚さが残ります。その一方、パワーは、私たちを無限に動機づけてくれます。例えば人生を、出会う人々すべてに尽くすことに捧げられるなら、人生の意味は決して失われないでしょう。
いっぽう人生の目的が経済的な成功であるなら、達成した後に何が残るでしょうか?今日ではこれが、中年男女のうつ病のおもな原因のひとつとなっています。
むなしさ(空虚さ)に迷い込むのは、パワーを引き起こす「原理」に人生を合わせていないことから生じます。この現象を現代に映し出しているのは、偉大なミュージシャンや作曲家、指揮者などです。そういう人々の中で、八十代、九十代となって、意欲的にキャリアを続けながら、しかも子供たちもいて、高齢になっても精力的に活動して生きる人たちは少なくありません。
その人たちの人生は、美をクリエートしたり、具現化したりすることに捧げられています。
その美というものに、実は偉大なパワーが含まれていて、彼らはそれを表現するのです。美と共に生きることは、長寿と精力にも関係していると、臨床的に証明されています。美は創造性を働かせるので、長寿はすべての創造性を仕事としている人々に共通しているのです。
これを読んでいて最後の美についての言及に大村智先生の本『人生に美を添えて』(生活の友社)のことを思い出しましたわ。
それにしても、この『パワーか、フォースか』という本は読めば読むほどに奥が深そうです。
『〈わたし〉真実と主観性』(デヴィッド・R・ホーキンズ、ナチュラルスピリット・パブリッシング)とともに再読の必要がありそうですわ。
次々に本を読んでいると、このようにどんどこどんどこシンクロニシティが起きるようですわ。
有り難いことです。
ありがとうございます。

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