2016年7月20日水曜日

つかず離れずの親子関係、60歳からの家造り、選択の自由がある自分介護の道

今まで温めてきた新聞の投稿記事があります。
2016年6月26日(日)の読売新聞「気流」に掲載された記事です。
『今どき「親子」』というテーマでの記事でした。
『「つかず離れず」がルール』(団体役員 小畑和裕 70 東京都小金井市)】
◆古里で一人暮らしをしている母と、決めているルールがあります。それは、母の生活に「関心を持つけれど干渉はしない」ということです。
◆母は92歳と高齢ですが、元気で野菜を育てています。野菜の植え付けや収穫の時期には必ず、きょうだい4人が順繰りに帰省して手伝います。
◆性格は頑固で、負けず嫌いで意地っ張りです。でも高齢ですから、いつ何が起きるかわかりません。そこできょうだい4人が1人年4、5回、しかも別々に帰省することにしたのです。母が一人の日を少なくするためです。いつまでも、つかず離れずの関係が続くことを祈っています。
92歳になっても子をあてにしない自立した生き方。
子が親を思いやる気持ち。
それにつかず離れずの親子関係。
けいじもかくありたいと、感銘を受けました。
先に紹介していた天野彰さんの本『六十歳から家を建てる』にも祖母の話が出てきます。
◆私の祖母は、最後まで自分の家で一人暮らしを通した。子供たちが同居しようと誘っても、「自分の身の回りのことくらい自分でできる」と言って首をタテには振らなかった。さすがに七十歳を超えた頃からは、毎日のように私の母が様子を見に通うようになっていたが、それでも死ぬまで下の世話は受けなかった。(p172→)
◆足腰が弱って歩けなくなると、滑りの良い絹の座布団の上に座わったまま、家中に張り巡らせた紐を引っ張りながら、滑って移動した。廊下を這ってでも自力でトイレに行った。風呂場にはかならず一人で入り、浴槽には入らず床に敷いたスノコの上で寝転がって身体を洗った。
◆「なんとお気の毒な」と思うかもしれない。しかし私は、まことにあっぱれな老いの生き方だったと考えている。気丈な祖母は身をもって老人のプライドを示してくれたのだ。
◆私だって、できることなら最後まで自分の家で好きに暮らしたい。誰の手も借りず、行きたい場所に移動したい。自力でトイレに行き、一人で風呂に入りたい。私だけではないだろう。間違いなくすべての人が、本心ではそう願っているはずだ。隠居部屋などに閉じ込められたくはないし、下の世話も受けたくない。ましてやオムツなどされたくない。
◆親の介護を考えることは、本当は自分自身の介護を考えることではないだろうか。自分自身が介護を受ける身になったとき「こうしてほしい」と思うことを実現し、「これはしてほしくない」と思うことはやめる。それが、いちばん情のある介護ではないだろうか。(←p173)
最近読んだ小澤竹俊さんの本『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』(アスコム)に「選ぶことができる自由があること」は、自分らしく生きるうえで、不可欠な要素ですと記されています。
◆年齢を重ねて体力が落ちたり、大きな病気を抱え、ベッドの上での生活が長くなったりすると、一人で食事をしたり入浴したりするのが難しくなります。いままで当たり前にできていたことができなくなるというのは、とても辛いことです。それでも、選ぶことができる自由は失われません。(p43→)
◆たとえば、自分の足でトイレに行くのは難しいし、自力で用を足すには痛みや苦
痛を伴うけれども、おむつの世話にはなりたくない。もしそう考えるなら、昼間は看護師さんにトイレに連れて行ってもらい、夜はポータブルトイレにする、といった具合に、排泄の方法を自分で選ぶことができます。
◆人生の最終段階になると、自力で用を足すことすらもできなくなります。それは多くの患者さんにとって、「死にたい」とさえ思うほどの苦しみです。しかし、そんな苦しみをかかえながらも、「下の世話をほかの人にゆだねても良い」と思ったり、「誰に世話を託すか」を自分で決めたりすることができれば、選ぶことができる自由は失われません。
◆「選ぶことができる自由があること」は、自分らしく生きるうえで、不可欠な要素です。選ぶことができる自由が損なわれると、人はときとして、自分の存在価値を認めることができないほどの苦しみを味わうことになります。
◆自力で用が足せないからといって、周囲の人たちが勝手におむつの使用を開始したり、本人の希望を無視して世話をする人を決めてしまったりするのは、その人らしく生きる権利のみならず、ときには生きる気力すら奪うことになるのです。
◆このように、選ぶことができる自由というのは、たとえ身体が動かなくなっても、意思決定や意思伝達ができなくなるギリギリの瞬間まで、何らかの形で残されるもの、残されるべきものです。ましてや健康で自由に動くことができるなら、さまざまなことを、自分で選ぶことができます。
◆もちろん、社会の中で生きている以上、時間的・経済的な制約や人間関係のしがらみなどに縛られてしまう部分はあるでしょう。しかしいつでも食事をとることができ、好きなときにトイレに行き、お風呂に入れること。外出が自由にでき、仕事の内容や将来の夢を自分で決められること。それはとても恵まれた、幸せなことです。(←p46)
けいじも最後まで選ぶことができる自由がある生き方、いわゆる自分介護の道を歩みたいものですわ。
温めていた投稿記事がこのような形でつながりました。
有り難いことです。
ありがとうございます。

0 件のコメント: