2015年8月26日水曜日

『一〇三歳になってわかったこと 』、篠田桃紅さんの深い言葉に出会う

先のブログでBS-TBSの『美しい日本に出会う旅』を紹介していました。
その最後の方で読売新聞の『個人旅行 画一化拒み「自分探し」へ「ディスカバー」旅情かき立てる』という記事からも次の言葉を紹介していました。
〈人間にとって旅とは何か。それは景色や事物を見ることではなく、それを見ている自分が何者かを知ること〉
この言葉にも通じる深くてありがたい文章に出会いました。
それは、篠田桃紅さんの本『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』(幻冬舎)にある次の文章です。
◆絵というものは、自分のなかに湧いてくる思いを、目に見えるようにしたものなので、なにを、という質問には、私はいつも戸惑いました。絵に表れているものこそが、質問の「なにを」で、そしてその「なにを」は見る人によって、どのように受け止めてもいいものだからです。(p60)
◆参考にできることは、おおいに参考にしたほうがいいと思いますが、頼るのではなく、自分の目で見て、考える。キャナディ氏(嵐の大野智さんがラジオで採りあげていました)の言葉は、私たちの日常の生きる姿勢にも通じると思います。(p61)
◆鑑賞を心から楽しむためには、感覚も必要です。感覚を磨いている人は非常に少ないように思います。感覚は、自分で磨かないと得られません。絵画を鑑賞するときは、解説は忘れて、絵画が発しているオーラそのものを、自分の感覚の一切で包み込み、受け止めるようにします。このようにして、感覚は、自分で磨けば磨くほど、そのものの真価を深く理解できるようになります。感覚を磨いている人は、日常生活においても、有利に働きます。まず、間違いが少なくなります。知識や経験に加えて、感覚的にも判断することができるので、身の回りの危険、トラブルなどを察知し、さっと上手に避けることができます。(p115-116)
◆伝えきれないもどかしさ、寂しさ。表現には限界があり、そして真実自体も、本人すらはっきりとわかりえない神秘的な、不思議な部分があります。真実というものは、究極は、伝えうるものではない。ですから、私たちは、目に見えたり、聞こえたりするものから、察する。そうすることで、真実に触れたかもしれないと感じる瞬間が生まれるのかもしれません。真実は、想像のなかにある。だから、人は、真実を探し続けているのかもしれません。(p85)
つまり、人間にとって絵画、美術、芸術、美しいも物とは何か。それは絵画、美術、芸術、美しい物を観ることではなく、それを観ている自分が何者かという真実を知ることなのだということになりますかな。
真実とは、言葉や文字で伝えられるものではないということのようです。
ホーキンズ博士の本でも真実の自分〈わたし=I〉に至る覚醒、悟りの境地というものは語れるものではないということが書かれていました。
篠田桃紅さんも同じようなことを述べておられるように思います。
有り難いことばですわ。
ありがとうございます。

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