2019年8月19日月曜日

アニータ・ムアジャーニさんの『喜びから人生を生きる!』、強烈なインパクトを受ける、その1つが時間の概念で「今」とは⁉

2019年8月16日金曜日のブログで、アニータ・ムアジャーニさんの本『喜びから人生を生きる!』が、あまりにもすばらしい内容なので、買って手元に置くことにしたと話していました。
彼女の本からは、いろいろな点において、強烈なインパクトを与えられました。
その1つに、時間の概念があります。
次のような内容です。
◆その世界では、時間も違うものに感じられました。私は全ての瞬間を、同時に感じていたのです。つまり、過去、現在、未来の自分が関係するあらゆることを、同時に認識していました。さらに、いくつかの人生が同時に繰り広げられているのを感じました。 p108
◆言い換えれば、時間は、この世で体験するような直線的な流れではありませんでした。私たちの理性が、周囲で起こっていることを連続したものに並べているような気がしました。身体を持っていなければ、実際のところ、過去も現在も未来もすべて同時に起こっているのです。p108
◆時間のあらゆる点を同時に知覚できるというのは、向こう側の世界での明確な理解に役立っていましたが、今それを思い出したり、説明しようとすると混乱が生じます。直線的時間が存在しない時、出来事の連続性ははっきりしなくなり、それについて話すと不自然な感じがしてしまうのです 。p108-109
◆五感の制限により、私たちは時間の一つの点に集中させられ、これらを一列につなげて直線的現実を創り上げているように思えました。さらに私たちの身体の制限された知覚が、目で見え、耳で聞こえて、触ることができ、匂いを嗅ぎ、味わえる範囲に閉じ込めているのです。でも、身体的制限がなくなった私は、時間や空間のあらゆる点と同時に関われるようになりました 。p109
◆私たちが身体や思考というフィルターを用いないかぎり、時間は直線的なものではないとはっきりわかりました。もはやこの世の感覚に縛られなくなると、あらゆる瞬間が同時に存在するのです。輪廻転生の概念は一つの解釈にすぎず、私たちの知性が、すべては同時に存在していることを理解するための、一つの方法なのです。p216
◆私たちは、"時間が過ぎる"と思っていますが、臨死体験をしている時には、時間はただ存在していて、自分が時間の中を移動しているように感じられました。時間のあらゆる点が同時に存在するだけでなく、向こう側の世界では、私たちは、速く進んだり、遅く進んだりすることができ、さらに、後ろにも、横にも動けるのです。p216
◆しかし、物質的次元では、感覚器官のせいで制限が与えられます。私達の目は、この瞬間に見えたものだけに気づき、耳も同様です。思考は一つの瞬間にしか存在できないので、瞬間と 瞬間をつなぎ合わせて、直線的な一連の出来事を形成しています。でも、身体から自由になると、私たちは、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚を通してではなく、自分の気づきだけで、すべての時間や空間の中を動けるのです。私たちは、純粋な意識そのものになります。 p216-217
◆もし、すべての時間や体験が今この瞬間に存在していて、私たちは物質世界で自分のすばらしさを表現しながら、その中をただ通り過ぎているのだとしたら、何も恐れることなどありません。次に何がやってくるのかと心配して生きる必要もありません。この理解があれば、すでに自分の一部であるそのエネルギーを受け入れ、生命のあらゆる側面を愛することができるでしょう。p219
◆ところが、臨死体験中、私たちの人生におけるあらゆる瞬間―――過去、現在、未来のあらゆる瞬間―――は、同時に存在しており、まるで私たちが時間として知るものの外側にあるかのようだったのです。私は、自分がすでに、到達しようとしていた状態にあることに気づきました。p260 
◆自分が死んだ時は、まるで夢から目覚めたような感じでした。どこかに行ったような感じではなく、覚醒して、360°の視野と、完全な共感覚(複数の感覚が同時に認識されること)が得られたようでした。自分に関わるあらゆるものが見え、聞こえ、感じられ、わかったのです。私は、自分の過去、現在、未来を同時に生きていました。さらに、私に関係する出来事は、壁や空間を超えて、すべてわかりました 。p265-266
これと似たようなことについては、2015年7月14日火曜日のブログで、デヴィッド・R・ホーキンズ博士の考えを『<わたし> ―真実と主観性』という本から次のように紹介していました。
■霊的な真実は、世界が供給できるいかなるものよりも、喜びと充実感をもたらしてくれます。そしてそれは無限であり、未来ではなく常に今という瞬間において永続的です。霊的な人生はとてもエキサイティングです。というのも、そこでは今の瞬間という頂点に生きるようになり、それは波の背後にある過去でも、前方の未来でもないからです。あたかもナイフの刃のように鋭い瞬間に生きるというエキサイティングな生き方は、過去にとらわれている人や未来に生きる夢追い人よりも、ずっと自由があります。
■もし、人生の目標が、生きるうえで次々にやってくる瞬間にベストを尽くすということならば、あなたはもうすでに苦しみの主要な原因を回避しています。このダイナミックな今という瞬間に静止していることができれば、反応したり編集したりしなければならない人生の物語は存在しません。この一点に集中する心(マインド)を持つことができれば、すべてはただ"あるがままにある"、それだけだということが明確になります。そこには、コメントや修飾すべきことは何もありません。(p140-141)
さらに、森本哲郎さんの本『老いを生きる』から道元禅師の言葉も紹介していました。
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道元禅師は、それをこうも記している。
山を越え、河を渡って、自分はいまここにいる。とすれば、山を越え、河を渡った時は、すでに過ぎ去ったと思うだろう。しかし、それはちがう。山を越えた時にも、河を渡った時にも、自分は存在した。その私の中には時があり、その時は、自分がここにいるかぎり、いまもある。とすれば、山を越えた「時」は、依然として私とともにあると考えねばならない。すなわち、過去の「時」は、みな現在の私のうちに存在するのだ、と。
道元禅師は、そうした時間の相を「而今(しきん)」という語で表現している。「而今」とは、「まさにこの時」「今の今」「永遠の現在」という意をこめた言葉と見てよい。言い換えれば、歴史は現在に凝縮される。いや、過去だけではない。未来も「而今」にこめられているのだ。だから、時は飛び去る、とだけ考えてはならぬ。過ぎゆくだけが時の働きだ、と心得てはいけない。もし、時が飛び去るだけのものであるなら、時と我との間に隙間ができてしまうではないか。時は我のなかに。つねに「而今」としてあるのだ、と禅師はいう。(p170-171)
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最近、カミさんの影響で斎藤一人さんのYouTubeを見るようになったら、谷口雅春先生のYouTubeもあることに気づきました。
その中に、「久遠の今」という講話がありました。

そこでは次のように語られています。
❖一番重大な問題は、「今」ということであります。この「今」というものがわかったら、それが本当の悟りであるわけです。
というわけで、この時間、今という概念の奥には深い意味が隠されているようです。
奥が深すぎて、けいじは、いまだに体感できていません。
悟りという境地はまだまだ先のようですかな。
そのうち体感できればいいかなと気長に考えています。
まあ、あるがままに、ゆったりとした人生を愉しんでいきますわ。
有り難いことです。
ありがとうございます。

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