2020年3月14日土曜日

加茂谷真紀さんの『愛のエネルギー家事』、腰痛直前にこの本に出会う、それを生かせず再発に

今年の腰痛直前に『愛のエネルギー家事』(加茂谷真紀、すみれ書房)という本を読んでいました。
これぞ、けいじが追求している究極の家事ではないかと思いました。
その1節≪やりたいことを、やりたいときに、やるだけで、自然に家が整います≫(p12-13)を紹介します。
一部を抜粋してみます。
◆身のまわりを片づけて住処(すみか)を心地よく整えること。
おいしいごはんを作ること。ゴミを捨てること。ほこりをはらい、汚れを拭くこと。
本来、家事は快適な暮らしのためにおこなう自然な行為で、とても「気持ちのよいこと」です。(著者は「家事は神事(カミゴト)」と書いています)
◆でも、いつのころからか、家事が「義務」になってしまいました。
やらなくてはという義務感は、自分の持っているカを小さくします。「やらなくては」とは、「自分はやっていない」「できていない」ことが前提の言葉だからです。
◆それによって、自己否定のエネルギーが体じゅうをかけめぐり、次に、やらなければいけないという抑圧の負荷がかかります。
◆「毎朝20分、かならず掃除をする」
「日曜と水曜は買い物の日」
「夕飯は20品目使ったメニューを作る」
などといったルールを一度忘れてみましょう。
◆そして、「いまやりたい家事は何かな?」と心に問うてみましょう。
やりたいことが浮かばなかったら、こんなふうに思ってみてください。
「家が少しくらい散らかっていてもいい」
「疲れているときに外食するのは最良の選択!」
「シーツの洗濯より、ぐっすり眠ることが大切よね」
◆家事が義務ではないという感覚を体がどんどん覚えていくと、家の中の空気が明るくやわらかなものに変わっていきます。
「やらなくては」と苦しく思うことは、きっと「やらなくても大丈夫」な家事です。どうぞ安心して義務感を手放していってください。
けいじが「家事」を「家しごと」と言っているのも、家事ということばに何か義務感のような、イヤな負のイメージを思い浮かべるからでした。(2012年3月23日金曜日のブログ『「家しごと」、どんどん増えてます』参照)
このような「何かイヤな、クラい、ツラいイメージ」から解放されるために「家しごと」という言葉を使ってきました。
が、結局、この「やらなくてはという義務感」のワナに、いつの間にかはまっていたようです。
加茂谷さんの「義務感を手放して」という言葉には斎藤一人さんの「なんでもキチッとし過ぎないことだよ。」という言葉にも通じるものがあります。
これらの言葉にもう少し早く出会って、体得できていたら、2月初めの腰痛はなかったかもしれません。
この本は、まさに、けいじが待ち望んでいた本のようです。
第1章では、「すべての家事は、手のひらから愛情を伝える行為」だとか、
第2章では、「物をかわいがることが掃除の基本」だとか、
第3章では、「料理には作った人の心の状態が反映するから作りたくないときは無理に作らない方が良い」だとか、
第4章では、「入浴には電磁波などの体に付着した不要なものと古い思念を洗い流す意味がある」だとか、
第5章では、「片付けの基本は「物はどうされたがっている?」を考えることにある」だとか、
第6章では、「買い物のポイントは欲しい物が語りかけてくるか? 」だとか。
いやぁ、ほんとうに、けいじに合ったいい本でしたわ。
有り難いことです。
ありがとうございます。

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